「のんちゃんは、鳥のように歌う。」

自分100%を生きる、そんな願いを込めたブログ。

~流れに乗る、ということ。~

こんにちは、のんちゃんです。

「流れに乗る」ということについて、

最近腹落ちしたように思うので書きます。

 

漠然と「流れに乗る」ということを意識するようになったのは、

今年1月の末に榎本英剛(えのもとひでたけ)さんの本の出版記念イベントに参加したことから。【満員御礼】鹿児島★本当の自分を生きる~出版記念イベントfacebookページ)

この「本当の自分を生きる」という本の中に、

『流れに乗ると、思いがけない形で人生の扉が開かれる』という章があって。

イベントでは榎本さんご自身の実体験に基づくエピソードが語られた。

 

イベントに参加する前から、

U理論実践講座や中高生ミーティング、たきびとなどの場を通して、

「自分に本物である」ということは意識して生きるようになっていたけれど、

「流れ」というものを意識したり認識するようなことはなかったように思う。

 

それが、榎本さんの話を聞いて本も読んで、

「流れ」というものを意識して人生と向き合ってみると最初は、

「流れに乗るということは、全てを受容することだ」

そう自分の中で納得していた。

 

本を読んだのは3月の前半、

ドイツに向かう途中で読んでいたような記憶がある。

そして、ドイツでの経験や帰国後の経験に、

「流れ」というものをかなり強く意識していたように思う。

 

自分自身の状態や身の回りで起こることに対して、

「そういうもんだよな~」「仕方ないよな~」

と言いながら実際は現実を受け止めていたかな。 

それでいてさっき書いたように納得していたのだけれど、

今は違う。

 

「流れに乗る」=「全てを受容する」

で終わりではない。

ここまではただ流れに「気付いた」だけ、

流れに「乗っていない」と思うのだ。

 

今この瞬間、

「流れに乗る」をのんちゃんの言葉で言い換えると、

「身の回りで起こること全てを受容した上で、自ら次の"選択"をすること」

 

少し丁寧な表現にしたけれど、

つまり、

”選択”するということがあって初めて、

”乗る”ということだと気付いて、

ようやく「流れに乗る」ということが自分の中で腹落ちした。

 

今自分が人生の中で立っている位置や、

同じく誰かにとっての人生での位置とか、

あらゆるものが関係しあって今この瞬間目の前の現実を作っていると思う。

それは自分にとってもだし、誰かにとっても。

きっとその時の願いに反することもあれば、

悲しみや苦しみを伴うこともあるかもしれない。

 

でも、たとえどこか受け入れ難いようなことがあったとしても、

その現実を真摯に受け止め受容する、流れに気付く。

そして、自らに問う。

「さぁどこへ向かって進もうか、進みたいか」

すると、自然とその答えは、

今自分が掴んでいる流れの方へ向くような気がしている。

 

うん、なんだかそんな感じ。

 

最後に、

のんちゃんが今感じている自分の流れを書いておくと、

「やりたいと思ったこと、ノーブレーキ」

もうブレーキはかけない、いらないと思っている。

とにかく進んだ先にまた見える世界があって、

そこでまた考えればいいやという感じ。

 2018年に入ってから進もうという気持ちはありながら、

心全体としても体もどこかリンクしていない感覚があった。

ようやく機は熟した、流れがきた、という感じだ。

 

というわけで、のんちゃんは進みます。

 

 

~2018年、春休み振り返り。~

こんにちは、のんちゃんです。

いよいよ新学期が始まって、8ヶ月ぶりに鹿児島大学で講義を受けています笑

昨年度の後半に中国へ行っていたこともあって、

4年の前期でもそこそこ授業が入っています。

 

さて、春休み間にほとんど何も投稿していなかったので、

今回はざっと春休みのことを書いておこうかなと。

 

2018年の春休みは、

短期のイベントバイトをして、

海外インターンのお手伝いをして、

訃報で急きょ帰省することになって、

福岡にも勉強しに行って、

中学高校の同窓会で帰省して、

そのままドイツに旅立って、

インフルエンザをもらって帰ってきて、

公開森林実習は途中参加することになって、

組織開発の講座を受けて、

TSUNAGUで阿蘇に行って、

またまた帰省して少しばかりゆっくり。

 

ざっとこんな感じ。

春への変わり目ということもあって、

別れや新しい出会いもあったり、

あと初めてヨーロッパに行ったのも印象的かな。

いろいろ新しい一歩を踏み出そうとしても、

「一歩ずつだなぁ…」

という感覚も強く抱いた春休みでもあったかな。

 

うん、もっと書こうかなと思ったけれど、

なんだかこれぐらいでちょうどいい感じ。

総じて、良い春休みでした。 

 

そんでもって、新学期。

書きたいなと思いつつ書きそびれていることがあったり、

もう少しブログを書く時間を作りたいと思っていて、

無理せずじゃんじゃか更新していけたらいいな。

 

でも、優先順位は実際に起こす行動の方が先。

じゃんじゃかずんずん進んでいくつもり。

 

新学期が始まって新しい挑戦も、

やりたいことも盛りだくさん。

一歩ずつ、確実に、できるなら超高速で、

歩みを進めて行こうと思います。

 

 

~Never Enough な自分、内側の前提への気付き。~

こんにちは、のんちゃんです。

久しぶりの更新になります。

自分の内側に在る、前提(メンタルモデル)への気付きのお話です。

 

最近、ひょんなことから『The Greatest Showman』という映画を見た。

この映画の中に、「Never Enough」という曲があって、

映画の中では「私は決して満たされない」と訳されていたかな。

それがまさに自分だなと思えて、

なおかつ自分の内側も反応しまくりで、

見ていてかなりしんどかった。

(今思えば、映画そのものはとてもいい映画です。笑)

 

映画を見てからというもの、

「Never Enough」の曲は耳から離れないし、

「決して満たされない」

という前提で自分が生きていることにも、強く実感を持つようになった。

 

さてさて、「決して満たされない」に加えて、もうひとつの前提が自分にはある。

北京に留学しているときに気付いた前提なのだけれど、

「誰も自分の状況を好転させることはできない」という前提。

結局のところ、誰が何をしようと自分はマイナスから抜け出せないんだ、という感じ。

マイナスからゼロへ、ゼロからプラスへ、

"全部自分の手でやらないと"

そう思って生きてきたと思うし、行動してきたと思う。

(もちろん、実際はたくさんの周りの支えがあって今があるのだけれど。)

 

さらに、鋭い人は気付いたかもしれないが、

この前提には「自分はマイナスだ」という前提も隠れている。

こうした前提から外側の世界に関わるので、

いっぱい頑張っていっぱい経験をして、

その分、人より落ち着きがあるとか言われたり、

思考や今持っている能力の足しになったことも確かにあっただろう。

 

でも、自分の内側はどうか?本当に幸せか?って思う。

正直に答えるならば、幸せではない。

ちょっとした喜びや嬉しさ、充実感を感じることはある。

でも、その感覚はすぐに消えてしまって、

結局のところ、幸せだ!という感じはしない。

(どこか極端な言い方だけれど、言わんとすることは伝わるかな。)

 

先日、福岡に行くことがあった。

そこで縁あってお坊さんのお話を聞いた。

その中で、

「子どもと大人に、幸せだと思うことを書き出してくださいと言うと、

子どもは手が止まらないぐらいなのに、大人は5個ぐらいで止まってしまう」

というような話があった。

 

自分も、何が幸せだっけなぁ、と思うと、

一個も出てこない。

あんな時間やこんな時間は楽しいなぁ、はもちろん出てくる。

でも、これが幸せだ!と言えるものはひとつもなかった。

 

復学をして2年近くが経つ。

この2年でいろんな出会いがあって、いろんな経験をして、

いっぱい飲んで、いっぱい笑った。

それなのにどこか足りないような、

心にはぽっかり穴が開いているような、

虚無感という言葉がふさわしいような感覚。

昔から持っているそんな感覚を、結局のところ拭えていない。

 

きっと全く幸せではない、ということはない。

幸せに感じることも、きっと経験しているはず。

でも、その幸せが全部、

気が付けば穴から流れ出てしまっている感じ。

その穴の正体は、

「決して満たされない」という前提(メンタルモデル)だろう。

はっきりとしていないのに理想は高い、

足るを知るという感覚がない、

今を幸せに感じる感性がない、そんなようにも感じている。

 

あぁ、悲しい。

なんでこんな生きづらい人間になってしまったのだろう。

そう嘆きたくなってしまうのが本音。

 

でも、

ー「自分はマイナス」で、それを「誰も好転させることはできない」から、

 結局は自分ひとりで必死に頑張って頑張って頑張る。

 それでも「決して満たされることはなく」マイナスのままで、また頑張る。ー

そんな自分の前提に気が付けたことは、大きな前進だなと思う。

なんせ立っている位置が違う、世界の見方や捉え方が違うという感じかな。 

それに、この負のスパイラルから抜け出す糸口のようにも感じられる。

 

今もまた、このスパイラルから現実を作り出している気がしているのだけれど、

そんな前提の気付きを得た位置に立って問いかけてみる。

「本当はどうありたい?どう生きたい?何がしたい?」

まだはっきりと答えは出ないが、今までとは違う答えが出てきそうな感覚がある。

 

なんだか長くなってしまった。

最後に、

人生は修行だ、とはよく言ったもので、つくづくその通りだと思う。

今ものんちゃんはまだまだだなぁ、なんて思っていて、

また頑張ろうとしている。

前提ってやつはほんとに前提だ!やっかいものめ!

でも、今は前提を変えなきゃとか取り払わなきゃ、とは思わない。

そんな前提で生きてるよな~、って受け止めてる。

 

その上で、幸せに、生きていけたらいいな。

 

~願いの裏に。~

こんにちは、のんちゃんです。

人は皆、願いを抱いている。

その願いの裏には、いろんなものが詰まってるんだなぁ、

と感じたお話。

 

今日も夜から勉強会に参加していて、

なんだかその場にとても満たされるものがあった。

さっきそんな帰り道に、閃いた。

のんちゃんは、

「どこへも行けなくて、何にもなれないこと」

を強く恐れているのだなぁ、って。

 

昨日、「どこへでも行ける、何にでもなれる」って、

自分の願いの話を記事に書いたのだけれど、

まさにその願いが叶わなかったような表現だ。

 

願いの裏には、恐れが隠れていた。

そう気が付いて、

少しびっくりするような、やっぱりなと思うような、

なんかそんな感じだ。

 

もしかしたら、

「どこへでも行ける、何にでもなれる」

って強く信じることで、

恐れをかき消そう、押さえつけようとしているのかもしれない。

というか、きっとそうだ。

全部じゃないにしても、

そんな自分がわずかでもいるのは間違いない。

 

でもさ、昔だったらこの恐れに対して、

「もっと強く信じないと!!」

「絶対できるぞ!!」

「うぉおおお!!」

って思ってた気がするんだよね。

もう何が何だかわからずとにかく自分を鼓舞するみたいな。笑

それが今だと、

「恐れてんだな~」って思ってる。

自己受容って言っていいかな。

 

表現がうまく見つからない感じがするのだけれど、

こうして自己受容ができていることで、

自分の未来を真っすぐに見つめられているというか、

恐れをかき消すことが目的にならず、

自分の願いを生きられるような、

そんな位置に立つことができているような気がする。

 

さて、のんちゃんの願いの裏には恐れがあったのだけれど、

周りの人の願いを思ったり、

実際に聞いたり感じたりしたときのことを思い出すと、

願いの裏には恐れに限らず、

葛藤・あきらめ・挫折・苦しみ・痛み…

いろんな感情や経験があるのだなって、

自分のことを考えると同時に思った。

 

願いを生きるって、僕には恐れが立ち上がる。

でも、そうやってそれぞれ抱えているものがありながら、

みんな必死に願いを生きようとしているのだな、と思うと、

どこか繋がりを感じるし、少し安心する感覚もある。

仲間がいる、という感じかな。

 

「自分が自分であり続けると、世界から祝福される」と聞く。

この、祝福される、という表現が僕は好きだ。

みんながみんな祝福されて、

お互いに、祝福し合える世界になるといいな。

 

今日はここまで。

良い日になった、お祝いだ。

 

~どこへでも行ける、何にでもなれる。~

こんにちは、のんちゃんです。

のんちゃんはあることに気付いてしまった、そんな記事です。

 

昨日、立志式なるものに参加して、

中学生が自らの過去を振り返り、

未来に向けて一歩を踏み出すお手伝いをしていました。

 

今回、立志式という言葉も初めて聞きましたが、

鹿児島では14歳の中学生をお祝いする文化があるんですね。

 

それはさておき、

中学生が過去を振り返るのをお手伝いするにあたり、

自分自身の過去も振り返ってみてね、ということだったので、

のんちゃんも過去を改めて振り返ってみたんです。

 

そしたら、のんちゃんは気付いてしまった。

僕は「どこへでも行ける、何にでもなれる」のだ、

もっと早くにそう気付いていたら、と。

同時に、

小学生、中学生、高校生の自分が、

どれだけ自らの手で、人生の可能性を制限してきたか、

そんなことに気付いてしまった。

 

のんちゃんの過去のストーリーは割愛するけれど、

正直、なんで周りが教えてくれなかったんだ!に近い感情も今持っている。

でも、だからと言って誰かを咎めたり責めるつもりはさらさらない。

結局は、

今までの人生を選択し、過去を作ってきたのは自分以外の何者でもなく、

これからの未来を創っていくのも、自分以外の何者でもないのだ。

 

「どこへでも行ける、何にでもなれる。」

これからの人生は、そう強く信じて生きていきたい。

というより、そう信じて生きていく。

僕の生きる願いであり希望であり夢でもある。

 

今までも、生きる願いを言葉で表現することはあったけれど、

なんだかここまでしっくりきているのは初めてだ。

今までは周りから聞いた言葉が含まれていたけど、

自分の内側から湧いてきた言葉だからかな。

 

実は、中学生にも昨日チェックアウトで同じことを伝えた。

「どこへでも行ける、なんにでもなれる。

 そう信じてこれからを生きていってほしい。

 自分もそう信じて、これからを生きていくから。」

普通に考えたら、何様だよ!って感じだ。笑

でも伝えたんだよね、気付いたら話してた。

わずかでも、伝わるものが伝わってくれていたら嬉しいな。

 

さて、今日は朝からどこか疲れている感覚があって、

参加していた勉強会にもあまり集中することができなかった。

でも、西郷どんを見て、こうしてブログも書いて、

なんだか少し元気になった気がする。

 

最後に、

昨日の記事に続いて、その立志式で聞いたお話なのだけれど、

夢は口に出すと、叶う確率が3倍になるらしい。

 

~自分を生きる、覚悟。~

こんにちは、のんちゃんです。

どえらく久々に記事を書くような気がしています。笑

前の記事以降の1月から、今日2月3日の午前中までも、

何かと濃い出来事がたくさんありまして、

ブログを書きたいと思いつつも、なかなか言葉が追い付いてきませんでした。

 

そんな時間がありつつも、なんだか今、

言葉としてひとつ表現ができそうなので書きます。

 

…今、思うんですね。

結局、自分を生きる!という覚悟を持てるかどうかだな、って。

 

ここ数日、自分と繋がっている感覚を持つことがイマイチできなくて、

何かエネルギーを出そうとしても、どこか心の中にモヤモヤもあって、

「自分は本当に望んでいる方向に進んでいるのか?」

と自分に問うても、自信を持ってYES!とは言えない感じ。

 

自分の中に恐れや迷いもあったし、

望む未来を明確にできていない自分もいた。

正直、ぶれにぶれていた自分だったと思う。

そんな自分である可能性は、今この瞬間もこれからもずっと在り続けるはずだ。

でも、

未知でしかない未来に、自らの歩む道筋を立てる、

そして、ぶれずに自らの道を歩む、自分を生きる、

まず必要なのは、覚悟だ。

そう気付いた瞬間が、つい最近ありました。

 

それから自分のことを振り返ると、

結局、何にも覚悟なんて決めてもいないし持ってもいない。

2018年は全速前進だ!と言いつつも、

確固たる願いも目的も覚悟もなかった。

何かを掴むとか手放すとか、

そんな目先の選択をどうするではなくて、

自分はこうありたいと願う未来への、

確固たる願い、目的、覚悟から、

現在の自分を背伸びせず捉える、

何よりもまず、そこからだ。

 

ぶれない自分で在り続ける、

というのは結局、

自分を生きる、覚悟があるかどうか。

たとえどんなに恐れが立ち上がろうとも、

その位置に、実際立てるかどうか。

本当にいろいろなことがあったけれど、

ここ数週間で、たくさんの人からそう気付かせてもらいました。

 

さて最後に、今日の午前中に聞いたお話。

 

夢を叶えるための最初の一歩を踏み出すのはいつか。

ー今日この瞬間からだ。

 

~自分と繋がる、繋がっている、という感覚。~

こんにちは、のんちゃんです。

「自分と繋がる、繋がっている」なんて、

ピンと来ない人も多いかもしれないけれど、とにかく書いてみる。

そんな感覚をのんちゃんは大切にしたいな~、というお話。

 

今、ご飯を食べてお風呂に入ってパソコンをいじっていたら、

急に睡魔が来て少し横になったらあれよと時間が経っていて、

本当は違う話をブログに書こうとしていた。

でもやめた、自分と繋がっていない感覚があったから。

 

何を思ったか、もう少し具体的に書くと、

「これは今、自分が本当に書きたいことと違うな」

という感じかな。

言葉が出てこない感覚や、無理に言葉をひねり出そうとする感覚、

書かなきゃと頑張っている感覚も、ふと感じられた。

 

結局、自分と繋がっている・いないの感覚を言葉にして伝えるのは難しいのだけれど、

そこにある”違和感”みたいなものを、つい最近になって敏感に感じ取れるようになった気がしている。

そして、自分と繋がる方へ一歩踏み出す勇気、

みたいなものも最近は自分の内側にある気がしている。

 

正直、自分100%、自分が自分であり続けることには、

恐れや怖さだって常にわずかであっても感じている。

時にはそれがとても大きく感じられることだってある。

それでも、自分であり続けたいと思うんだな。

 

自分と繋がり、自分を生きたい。

どこからそんな思いが湧いてくるのかよくわからないけれど、

そう生きていくのんちゃんでありたいと、ただただ思う。

 

今も、自分と繋がる感覚を大切にしたいと、改めて強く感じている。

ここまで書いている途中もずっと自分と繋がっている感覚があったし、

書き終えて達成感みたいなものはあまりなくて、

どこか心地良い感覚がある、ルンルン楽しい感じもする。笑

もう2時半、深夜に起きていると気分が下がりがちだけれど、

今日は楽しいや。

 

~2018年、鹿児島での生活が始まる。~

こんにちは、のんちゃんです。

一昨日、帰省先の京都から鹿児島に帰ってきました。

帰省の簡単なおさらいと、2018年を鹿児島で生きる抱負、みたいな記事です。

 

まず、帰省のお話。

今振り返ると、よく食べて飲んで笑った、そんな年末年始でした。

久々に家族4人揃って年越しをすることができたし、

地元の小学校の友達にも会うことができたし、

中学高校の友達にも会うことができたし、

なんだか新年の良いスタートを切ったな、という感じ。

 

その中でいろいろ感じることもあって、

記事にしたいなと思うこともたくさんあったのだけれど、

何かと文章にすることができなかったので、また時間と気持ちが整えば書きたいな。

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そして、鹿児島で始まる(始まった)2018年の人生を見据えて強く感じているのは、

「のんちゃん、フルエネルギーで生きることができる!!」ということ。笑

言い換えれば、

自分の願いや喜びのために、自分のエネルギーをフルに使うことができる、

という感じかな。

 

振り返れば、ずっと自分というものを抑えてきた人生だったなと思う。

(表現が難しいところで、簡単な表現ではあるけれど。)

そんな人生から、自分100%!フルエネルギーで生きる!みたいな人生への変化って、

もちろん自分の外側の変化だって大きな要因だと思うのだけれど、

やっぱり自分の内側の変容があってこその変化だと思っている。

そういう意味では、2017年は自己変容が大きく進化(深化)した年だった。

自分にとっては、「PEACE OF MIND 安心・心(魂)の平安」がキーワード。

年末にfacebookに載せた文章と被るけれど、それを書いた時と思いは変わらない。

 

まだまだ恐れや怖さだって時には心に湧いてくるけれど、

自分のエネルギーを、自分の願いや喜びから、安心して外側に出す。

そうして築き上げる人生はきっと、楽しい人生になるはずだ。

もう2018年の10日目だけれど、人生を楽しんでいる。

頑張っている、という感覚はさらさらない。

 

2018年は全速前進、失敗もいっぱいすると思う。

でも、それも楽しいはずだ。

願いと喜び、そして実現したい未来へ向かって突き進む。

キーワードは、

「安心」「繋がり」「思いやり」

 

いろんな表現が浮かんできてまとまりがないような文章だけど、

伝わるものは伝わる気がするのでこれも良しかな。

最後に、年末にfacebookに載せた文章と被る部分が多かったなと思うので、

その投稿もここにコピーして載せておきます。

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(2017/12/30 facebookに投稿)

【「頑張ったね」を、「楽しかったね」に。】

年末を迎え振り返ると、2017年は「頑張った」一年でした。

そんな、いろんなことに挑戦をして頑張ってきた一年の最後に、自分が今までずっと探し続けていたものを大きなギフトととして頂きました。

「PEACE OF MIND 安心、心(魂)の平安」
エンパシーサークルで用いられるニーズカードの1枚。

僕は今、安心で満たされている。
2018年が終わる頃には、「頑張ったね」ではなく「楽しかったね」って、そう自分に声をかけられるような一年にしていきたい。というより、きっとなるはずだ。

鹿児島で、そして世界のあちこちでたくさんの方に愛を注いで頂き、本当にありがとうございました。
簡単ではありますが、2018年もこんなのんちゃんとお付き合いして頂ければ嬉しいです。

最後に、先日ブログを作ったのでリンクを貼ります。
http://nonchan100.hatenablog.com/
まだ何も書いていないけれど、自分の願いと喜びから表現をして発信できる場になればいいなと思っています。